認識や理解の過程やタイミングは、30人いたら30通りになるわけで、それ自体は単なる事実でしかない。ところが、教育の中では、なぜか、そのタイミングの早い遅いに価値や順位をつけてしまう。それは、大人〈教師〉側の都合によってである。
 
 学習指導要領やカリキュラムによって、教える内容と時数とが決められている中で最大の効果を上げることが教師の能力によるところが大きいという、思いこみによって、本来なら学習者個々に固有で個性的であるはずの理解や認識の過程やタイミングに順位と価値をつけてしまっている。順位と価値をつけることによって、大人〈教師)は、学習者を追い詰めたり傷つけたりしている、ということにほとんど無自覚だ。

 授業の中で、教師は、自分が思い描いた通りの過程やタイミングで理解や認識に到る子を褒める。親も同様だ。ほとんど無意識に、あるいは、そうすることが良いことだと信じて、そうする。しかし、そのタイミングで理解や認識に到っていない子にとっては、それは、どんなに否定的なメッセージとして感じられるか。そういうことが教室で家庭で繰り返されたら、教師が思い描いたように理解や認識に到らない自分は価値がないと思っても不思議はないだろう。

 自分には価値がないなんて思うのはあまりに切ないから、子どもは、わかった振りをしたり、わからないということを周りに知られないよう隠したりする。わからないと言えないようにしているのは、教師であり親ではないか。

 まあ、理解や認識の過程が学習者個々に固有のものだとは言っても、学校教育なので最大公約数的な内容と時数を考えていくことは、現実には必要だ。
 だがその前に、第一に大切なのは、教師一人一人が、『当たり前だ』『こうあるべきだ』『正しい』『効果がある』と自分が思っていることを、一度疑ってみることだと思う。特に、経験の長い教師こそ、自覚的、内省的になるべきだと思う。けれど、経験の長い教師ほどやっかいな存在なのね。

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