仮説検証型の校内研究のあり方は、もう時代遅れなんじゃないかとしきりに思う。

そもそも、仮説検証という行為そのものが、子どもの発達や学校教育のあり方を語るためのものとして考える時に、私には違和感がつきまとう。先進校や行政側から発信されたものをたどり直すというトップダウン型であるという点と、自分の学校の子どもを平均的な一般的な存在として客観的に見過ぎる傾向とが、その違和感の原因だろうと考える。

それよりも、自分の学校の、つまり『うちの学校の子ども達』感を強く持って、個々の教師や問題を共有する教師グループによる課題、つまり、『我々の課題、あるいは、私の課題』感の強い課題を取りあげながらのワークショップ型研修を積み重ねながら、課題解決に対してどういう問いを立てどう取り組んでどういう結果を得たかということをプレゼンし合うような、ボトムアップ型の研修に変えていかなければダメじゃないかと思う。

教育は、その地域の、その学校の、その教師達と子ども達が共に織りなす、固有の活動なのだから、ホントに主観的で良いのだと思う。どの学校にも当てはまる方法や手立てそのものなんか存在するはずがない。方法や手立てが有効かとなぞるのではなく、うちの学校で、我々は、こういうことを考え、こういう問いを立て、こういう取り組みをして、こういう結果(ポジティブもネガティブも)を得た、という活動そのものがそれぞれに発信され、論議されるということで良いのだと思う。

それに、授業のプランニングをいくら綿密にしたとしても、それを進める授業の瞬間瞬間に、教師が子どもがどう行動し発言し判断し、互いに良いものを作り出していくかに、実は大きなカギがあるのであって、そこの技術を磨くのは、プランニングだけしていてもダメで、教師も子どももいかに互いに他者の思考や感情を感じ取りくみ取り生かしていける存在に育っていけるか、ということにかかっているのではないかと思う。小手先の技術ではなく、かかわりの中で自分と他者を発見する力とでも言ったらいいのか……。

日本人は、ホントに、他と同じでないと安心できない。これは長所でもあるが短所でもある。
他と異なる新しい見方や考え方が育つのを阻む大きな要因でもある。

今度の選挙でも、こういうところをつつかれるでしょうね。

国民全体の知性の質が問われるんだと思うけど、どうだろう。

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