栗田哲也氏による『数学による思考のレッスン』を読了。いろいろ考えるところがあって、興味深かった。

 以前にも書いたけれど、新しいことを理解するには、結局は、既知,既習のものになぞらえて、「……のようなもの」として取り込むことしかない。最初になぞらえてとりこんだものを、一般性や広汎性、合理性などを試して修正して、最終的に記憶しておく。それでは間に合わないような、とてつもなく新しい、未体験なことを理解するには、自分がすでに持っている理解のための手続きや枠そのものを再構築しなければならないこともある。
 栗田氏も、様々な情報を処理するだけではだめで、それを自分の「世界」を作るための材料として取り込むためには、『モデル』が必要だと述べている。決して白紙の状態からは自分の世界を作ることはできないと。直接経験や読書などから得た、文化的で大量なモデルを持っていないと、想像力やイメージを働かせることはできないと。

 こういう点から考えると、『国語』という教科の指導内容や指導方法は、転換すべき時期にあると思う。

 明治期以来、学校における『国語』教育には、明確な狙いと役割があった。
 明治初期には、藩という封建的な土地を基盤とした藩主による具体的で、分散的な支配体制から、より抽象的な国民国家としての中央集権的な支配体制への移行のために、『日本国』としての共通言語である『国語』を確立させることではなかったか。明治後期から昭和初期までは、徴兵制にともない、軍隊内での指揮命令が正しく理解されるように、共通言語である『国語』を身につけること、そして、天皇を頂点とする帝国に対する忠誠心を養うことだった。そのために、選ばれた物語を徹底的にすり込まれ、それをモデルとして考える枠を国民にあまねく植えつけることをめざした。戦後は、民主主義というものを理解すること、民主国家としての共通な考え方を身につけることだった。高度経済成長期までは、日本という国の経済や産業を復興させるという目的の下、地方から大都市への労働力流入を支えるための共通言語と共通知識の習得だった。
 21世紀、高度知識基盤社会に移行しつつある現在、これらの狙いと役割は、合理性を失っているのではないか。もはや、共通の何かを身につけることではなく、多様性に対応すること、知識や情報の更新サイクルの速さに対応することが必要ではないか。
 
 『国語』教育では、言語活動を通じて、大量のモデルの刷り込みと蓄積、自分なりの解釈と説明の力を培うことを主とするべきではないかと思う。必要なのは、『一定以上の量』と『各自各様でよしとする』ということで、一つの方向に収斂していく必要は全く無い。どのみち、共同体としての地域や家庭がこれまでになく崩壊している昨今、共通の基盤はゼロだし共通のモデルはゼロに等しい。だから、『違う』というところから出発して、『多様性』を受け入れつつ多少の共通基盤を作れたら良いなぁぐらいの気持ちでいないと、学校も教員も成り立たなくなると思う。
 モデルとなるような物語を自分なりに解釈しつつ、それをモデルとして使いこなせるような力(メタファーやアナロジー)をつけることや、想像力を刺激し喚起することなどを中心にされるべきだと思う。

 ただ、学校は教員は過去の物に縛られるという傾向があるから、その方向を容易に変えることができにくい。惰性が強く働く組織であり職業である。
 外国語教育の改革を常に標榜しながらその総括も反省や修正もなく、また新たな改革に向かうという妙な力を、もう少し、国語(日本語、母語という方が私にはしっくりくる)教育に向けてはどうかと思う。
 これだけ、多様性に富み、共通基盤がゼロに等しいのに、道徳心や愛国心や忠誠心を植え付けることができるのか、新しい政権の人たちはどう考えているのか、昔のままに収斂していくことが可能だとどうして思えるのか、そこら辺を示してほしいものだ。

 
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