先週、6年生の学級を借りて、国語の授業をした。格言の解釈を扱う3時間の授業で、全体としては、お子さんたちが一生懸命取り組んでくれて、良かった。ただ、「正しい答えは?」とか、「間違っているんじゃないか」とか気にしすぎる姿が気になった。
人間が新しいもの、未知のものを理解し、取り込み、自分の一部とするには、途方もなく深く、多様な過程を経なければならないのだと、改めて感じ入ってしまう。その原点は、生まれて間もなくの言語獲得にある。生まれ落ちたその日から、いや、母親の胎内にいるときから、言葉は我々とともにある。我々の記憶や認識に言葉が刻まれるずっと前から。そのことが、言語獲得を、そして、未知の概念や言葉の獲得を、可能にたらしめる大前提である。
幼少期の言語獲得にしろ、未知のもの新しいものの理解にしろ、厳密に言うと、誰一人として同じ過程を経ることはなく、百人いたら百様の過程がある。自分の手持ちの経験や知識、言語を道具に、最も近いと思われるものを取り出してあてはめる。あてはめては修正したり、使っては確かめたりと、繰り返しつつ自分のものにしてゆくほかに道はない。ただ一つの正しい道があるわけでもないし、一発で100%正しく理解することなど、よほどの天才でない限り、ありえない。
なのに、ペーパーテストの点数競争の弊害だろうか、それとも、学校の授業や教師が、教科書内容をただ一つの正しいことであるとするメッセージを与えているためか、はたまた、経済的なマインドとして最も少ない努力で最大の効果を得たいということなのか、とにかく、正しい答えをまず気にする姿が見られた。自分の思考や言語と向き合うこと、問い続けること、求め続けることでしか、自分の世界は広げられないのに、どこか外にある正解を簡単に手に入れたいのか。
しかし、我々大人自体がそうなのだから、子どもがそうなるのをどうして責められるだろうか。
こんなことも考えた。
学ぶというのは、本当に大変なことだ。
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